「カルチャーショック」の経験がない理由(ワケ)を考えてみた

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そういえば「カルチャーショック」という現象?を体験したことがない

そもそも「カルチャーショック」とは、

カルチャーショック(Culture shock)とは、異文化に見たり触れたりした際、習慣・考え方・異文化の実像について、母国文化の常識と大幅に掛け離れていたり、自身が学校教育などで習得したその異文化に関する知識・情報と乖離しているため、心理的にショックを受けたり戸惑うことである。例えば、言葉が全く通じない、現地の人間について自分が学校の授業で教わったイメージと実像がかけ離れている、など。

外国や国内問わずに起こりえるものであり、例えば、外国の観光地や大都市に赴いた日本人が現地の実際の姿を実際に見てカルチャーショックを受けたり、逆に外国人が日本に来て自身が知識として得ていた日本に対するイメージや日本人像とその実像のギャップにカルチャーショックを覚えるということも起き得る。

Wikipediaより引用

ようは、自分の思っていた現実と違う現実を思う知ることですね。

たしかにないなぁ。こういう体験は。

もちろん海外へも行ったことはありますし、自分とまったく違うバックグラウンドの人たちと交流したこともあります。けど、それといって心理的ショックとか戸惑ったことはないですね。

 

なぜ、ぼくにはそういう体験がないのか?

よくよく考えてみると「カルチャーショック」って思い込みから生じる現象ですよね?たとえば、日本では挨拶は「こんにちは」「おはようございます」だけど、海外だと「Hello」「ニーハオ」「チャオ」みたいな感じ。日本で当然と思い込んでるからこそ、海外に行けばその違いに驚いてしまう。心理的ショックを受けてしまうということです。

ぼくにはこれがないんです。思い込みが。すべての事象はあり得るものだとどこかで考えているんでしょう。

目の前に起こることで、あり得ないものはないと考えているからこそ「カルチャーショック」がない。

地元では通じていた言葉が、他の地域にいくと通じないことなんてあって当然だと思っているからこそ、通じなくてもそれを当然のように受け止めてしまう。だから、どこにいっても「カルチャーショック」を受けなくて、異文化理解なんて言葉があることさえ意味が分からない。理解なんてする必要すら感じない、元々違う生き物が理解できたら今頃世界は平和だろう。

 

○○へ行って意識変わりましたは幻想

よく「インドへ行って意識が変わりました」とかFacebookで見ます。バカバカしくて反吐が出そうです。あって当然の文化を目の当たりにして、意識が変わるほど小さな世界に生きていたのか?と馬鹿にしたくなる。

異国の地へ行っても実際のところ意識は変わりません。あるべきことを目の当たりにして認識をたしかなものにしただけで、実は何も変わってはいません。ただの幻想に過ぎません。

そうやって幻想を見ている人が増えることがビジネスに繋がるから、そういうことをいう人が増えるんでしょうけどw

鋼の錬金術師のホムンクルス・グリードの言葉ですね。まさに名言です。ぼくの大好きな言葉。

海外に行って意識が変わったと言っている人にかけてあげたい一言ですねw

世の中にはあり得ないことなんてないんですよ。実際にはね。

テロもあり得ます、殺人事件もありえます、震災もありえますし、家が流されることもあり得るでしょう。

それをあたかもあり得ないこととして考えているから、そういった現状を見たときに驚きを隠せないし、状況を掴めなくなるんです。

すべてのことはあり得ます。これを理解しておくだけでもかなり物事の見方って変わりますよ。

 

何が言いたいかというと

カルチャーショック」という言葉を押し付けがましく使うことはやめてほしい。

その言葉は、自分の世界が小さかったことを物語っているといっても過言ではないですよ。また、相手に失礼です。異国にいって「カルチャーショック」を受けたなんて言葉にしちゃいけない。その国の人にとっては当然のことなんですよ。それを「これはありえない」「こんな文化があるなんて」などどいうのは失礼です。やめましょう。

みんながすべてのことがあり得る、ありえないなんて事はありえないって思っていれば、異文化理解なんて無駄なことはなくなるのでテロとか戦争ってなくなるんじゃないかな?「カルチャーショック」がなくなることで、無駄な軋轢はなくなると思いますけどねぇ。

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