人は基本的に楽観的な生き物なんじゃないかと思う

スポンサーリンク

「楽観的か悲観的か?」と聞かれると、僕は悲観的だと答えると思います。

ただ、一点生死に関わる部分に関しては、悲観的な考え方をあまり持ち合わせていません。自分がガンになるわけないと思っていたり、自分が事故を起こす/事故に遭うなんてことも考えていないわけです。ましてや明日死ぬなんてことは想像もしていません。

これは僕に限ったことではなくて、日本人なら意外と当てはまることなんじゃないかって思っています。

楽観的・悲観的とは?

そもそも楽観的・悲観的の意味については、

らっかん‐てき〔ラククワン‐〕【楽観的】

[形動]物事をうまくゆくものと考えて心配しないさま。「―な見通し」「―に考える」⇔悲観的。

(引用 コトバンク『楽観的』

ひかん‐てき〔ヒクワン‐〕【悲観的】

[形動]先行きに望みはないと考えるさま。望みのもてないさま。「悲観的な状況」「物事を悲観的に考える」⇔楽観的。

(引用 コトバンク『悲観的』

という感じです。

簡単にいえば、楽観的は前向きで、悲観的は後ろ向き。

言葉の意味だけを考えると、楽観的は良くて、悲観的は悪いみたいなイメージがありますが、別にそれは人それぞれで良いと思っていますし、どっちかの性格の人ばかりの世の中も怖いと思っています。

まぁ意味的なことについては深くは触れるつもりはありません。

なぜ「人は基本的に楽観的な生き物なんじゃないか?」と思ったのか?

思ったのかというよりも、とある本を読んでそうだよなーと考えさせられたという感じです。とある本というのが、大津秀一さんの『死ぬときに人はどうなる 10の質問』この本の中にこんな一説があります。

病院にいるとつくづく人間は「楽観的」だなと思う。

(略)

人間という生き物は時として凄まじい生命力を見せる半面、あっけないくらい簡単に死してしまう生き物でもある。
例えば、通勤・通学の僅かな時間に絶対に何もないとはとても言い切れない。
酔っぱらい運転の車が突っ込んでくるかもしれない、突然致死的不整脈を起こして昏倒するかもしれない、人ごみの中で狂った人間に襲われるかもしれない、結果として命を落とすこともあり得るのである。
事実、毎日理由は様々あれど、そのように何人かが命を落としている。今日、無事に生きて帰ってくる保証はどこにもないのにである。
とはいえ、病的な心配性の人もいるだろうが、大多数の人間は大なり小なり不安を感じつつも、死を意識せずに生きている。

(略)

生と隣り合わせの死を恐れるのならば、皆家に引きこもってしまうだろう。だが、そのように死を恐れても外出も控えて家でじっとしている人間はあまりいないと思われる。
だから皆、普通に生活をしている。すぐそばに死があるにも関わらず、である。

(引用『死ぬときに人はどうなる 10の質問』146-147頁)

意外と僕たちの身の回りには死がはびこっているのにも関わらず、僕たちは死を意識せずに生きていますし、誰かと別れる際には「また明日ね」と言ったりします。

これは普段から命や死と接する機会が多い大津氏だからこその考え方ではありますが、日本のような食べ物に困らず、生死を脅かされないような平和な国に住む人には共通することなんじゃないかと思います。

【感想/死生観】『死ぬときに人はどうなる 10の質問』近くもあり遠くもある“死”について思うこと

表面的には悲観的な人も楽観的な人もいる

ただ、もちろん表面的に見れば悲観的な人もいますし、楽観的な人もいるのが事実です。

受験や就職活動などであれば、「まぁどうにかなるだろ!」と楽観的な人もいれば、「もし、落ちたらどうしよう…」と悲観的な人もいます。また、インフルエンザやガンなどの病気の場合だと、「(自分は)病気になんてならないから!」とワクチンや検診にいかない人もいれば、「もし病気になったら…」と悲観しワクチンを打ったり、人間ドッグにいく人もいると思います。

ようするに目に見えたり、周りに自分と同じような状況や立場の人が多い事柄を目の前にすると、人は悲観的にもなるし、楽観的にもなるということだと思います。どっちが良いとか悪いとかはなくて、適度に悲観したり、楽観したりするくらいなら良いんじゃないかと思います。

明日死ぬかもしれないなんて想像している人は少ない

目に見えることや周りで体験した人がいることだと、悲観的にも楽観的にもなるはずなのに、こと“死”に関しては多くの人が楽観的になるんじゃないかと思います。

病気を患っていたり、ある程度年を重ねている場合はさておいて、多くの人は「自分が明日死ぬ」なんて考えてもいないはずです。明日じゃなくても、来週も生きてるはずだし、来月も、来年も生きてるはずだと思って生きていると思います。その最たる例が、「また明日ね」という別れ際の一言、もしくはスケジューリング(予定を組むこと)。

もし、明日死ぬとわかっていれば、「また明日ね」なんて言いませんし、明日以降の予定も立てません。僕たちは明日もその次の日も、また次の日も生きていることが当然のように振る舞っています。

大津秀一さんが『死ぬときに人はどうなる 10の質問』の中でもいっていますが、死って意外と近くに存在しているはずなんです。もしかしたら、次の瞬間車にひかれるかもしれないですし、突然心筋梗塞や脳梗塞になるかもしれません。でも、普段そんなことは考えずに生きている。

不思議な感覚ですが、人間って意外と生死に関わる部分においては楽観的なんですよね。

事故がなくならないのも(悪い意味で)楽観的だからじゃないかと…

事故がなくならないのも、生死に関して楽観的なことと同じことだと思います。

「自分は事故なんて起こさない」「自分は事故に巻き込まれない」「ちょっとならスマホ見ても(電話してても)事故るはずがない」と思っている人は多いですよね。かくいう僕もその一人ですが。

毎日のように事故に関するニュースを目にしているはずなのに、自分は事故には無縁だと考えてしまうために、ならが運転や歩きスマホをしてしまうし、多少眠たくても運転してしまう。「もしかしたら事故を引き起こしてしまうかもしれない…」という気持ちがどこかにあれば、ちょっとでも危ないことは避けるはずですし、それを避けるだけで多くの事故は起こらなくて済んだはずなんですよね。

もちろん、「事故るかもしれない…」と思って安全運転を心がけていても、事故を起こすことはありますし、「事故なんて無縁だよー」って楽観視していたからといって事故を引き起こすわけではないので、一概に「こうだ!」とはいえないですが。

生死に関して楽観的すぎると後々後悔する

別に生きていく上で、楽観的な方が良いとか、悲観的な方が良いとかいうつもりはありませんが、こと“死”に関しては楽観的すぎると後々後悔するんじゃないかと思っています。

僕自身、10代や20代で死ぬなんて考えもしなかったので、病気で死を感じたときには、「なんであのとき…先生の忠告を無視したんだろう…」と後悔しました。もちろんいつかは死ぬんですが、それが自分の想像よりも早いと、死に対して心の準備もできませんし、何かやり残した感じがあるので、自分を責めたり、後悔がかなり残るんじゃないかって思います。

生きていくためには悲観的な考え方も必要だと思う

だからといって「明日死ぬかもしれない」という気持ちで生きていくことは正直難しいです。僕自身も病気があったり、毎日のように運転するのでいつ事故を引き起こすかわからないですが、そんな毎日、毎時間、毎秒「死ぬかも…」なんて考えていたら切りがないですし、身動きが取れなくなってしまいます。

でも、「自分が事故の当事者になるかもしれない」「いつ何が起きるかわからない(事故や震災、病気など)」って考えておくことは必要なことだと思います。悲観的な考え方ってすべて悪いわけじゃなくて、何かに備えたり、起こらないための危機管理を促す点ではいいことでもあると思うんですよね。

「備えあれば憂いなし」と言いますが、ある程度備えておく、「もしかしたら…」と考えておけば、いざその状況になっても対処がしやすいですし、後悔も少なくなるんじゃないかと思います。

さいごに

楽観的か悲観的か?と聞かれると、やっぱり僕は悲観的な人間だと答えるでしょう。でも、そんな僕でも死に対してはかなり楽観的で、自分に病気があっても、多少無茶な運転をしても死ぬなんて考えてもいません。

長生きしたいとはあまり思っていません。(結果長生きならいいけど)でも、自分の不注意や考えの甘さで想定よりも早く死ぬのは嫌だなーって思ってもいます。何が起こるかわからない時代だからこそ、少し悲観的な視点で生きていくことも必要なんだろうなぁと思いますね。

まぁ僕の場合はもう少し楽観的に生きてみれば?といわれそうですが(笑)

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA